活動日誌

山添拓トークライブ! ふれあい文化会館会場いっぱいの420名参加で大盛況!

 来年4月は統一地方選挙です。山添拓参議院議員・政策委員長を迎え右京区ふれあい文化会館ホールで「トークライブ」が開催され、会場いっぱいの420名が集いました。
 西京区の河合ようこ(京都市会議員)成宮まりこ(京都府会議員)。右京区の清水明子(党市政対策委員)えもとかよこ(京都市会議員)山口咲子(党府政対策委員)島田けい子(京都府会議員)とわたくし山田こうじ(京都市会議員)の7人の府市会議員・予定候補がそれぞれ、①「私と日本共産党、入党の動機」②「議員として何がしたいか」を語りました。

私の3分決意!

4期目挑戦・暴力・分断許せない!

4期目の挑戦させていただきます、山田こうじです。
 大学紛争や部落解放同盟の暴力支配、ベトナム反戦運動のさなか高校時代を過ごし、立命館大学二部理工学部に入学しクラス活動、自治会活動に取り組みました。ベトナム人民の勝利のニュースを立命館大学衣笠学舎で聞き歓喜をあげ、八鹿高校事件(部落解放同盟の暴力支配に対し自由な学園をとの生徒たちの闘い)も大学に入り初めて知りました。
 激動の1970年初頭に高校・大時代を過ごし、大学での自治会運動を通じ日本共産党に入党しました。

平和でこそ商売繁盛

「平和でこそ商売繁盛」が私の原点です。
 19歳の時に被ばく30周年の原水爆禁止世界大会に参加し被爆者の被爆体験をお聞きし、また被爆者、被爆2世の方などの手記を読み、核兵器の恐ろしさを実感しました。
 81年前のアジア太平洋戦争で、アジアで2000万人、日本国民も戦地はもちろん、本土空襲、ヒロシマ、ナガサキの原爆投下、沖縄の地上戦など三百数十万人の命を奪いました。
 この痛苦の経験から憲法前文には「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」。文字通り、主権者国民が権力の手を縛り戦争させないと誓ったのが戦後日本の原点、出発点です。

国民から歓迎された憲法9条

 憲法制定の貴族院で幣原喜重郎首相は原子爆弾が発見されたもとでとして「文明と戦争は両立しないものであります。文明が速やかに戦争を全滅しなければ、戦争がまず文明を全滅することになるでありましょう」と述べ「一切の軍備は不要となります」と答弁しています。
 平和主義を貫いた憲法9条は多くの国民に歓迎されました。押し付けられたのは憲法ではありません。

安保条約こそ押し付け

1950年、朝鮮戦争が勃発し、GHQは日本に再軍備を求めます。
 1951年サンフランシスコ講和条約で「主権回復」と同時に署名された「日米安全保障条約」で、憲法の平和主義とは真逆の米軍基地と再軍備が押し付けられました。
 案保条約に基づく米軍とともに戦争する国づくりの暴走を止めなければなりません。
 「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」。憲法3原則に基づく政治実現に全力で頑張ります。

(更新日:2026年07月07日)

市内網の目平和行進 右京コース

京都ファミリー西口を出発し、葛野大路南進~四条通り東進~ラボール京都前解散での平和行進。昨年60名の参加から今年は80名と多数の方に参加していただきました。

核兵器なくそう
武力で平和は守れない
抑止力いらない
ミサイルいらない
祝園弾薬庫増設反対
トマホークいらない
ミサイルいらない
敵基地攻撃絶対反対
憲法活かして平和を守れ
憲法変えるな 政治を変えよう
戦争したがる 政治家いらない
高市総理は憲法守れ
ロシアは侵略ただちにやめろ
アメリカ停戦合意を守れ
戦争やめろ
平和を守ろう
ノーモアヒロシマ・ノーモアナガサキ・ノーモアビキニ・ノーモアフクシマ・ノーモアヒバクシャ

コールを響かせ、「折り鶴」「青い空は青いままで」などの歌声も響かせました。

(更新日:2026年07月04日)

山口咲子府政政策委員と朝宣伝

前回選挙以降、朝宣伝は一人で訴えていましたが、5月連休明けからかみね史郎元府会議員の後を引き継ぐ決意をされ、知事選挙と同時に闘われた府会補欠選挙に挑戦した山口咲子府政政策委員と一緒に訴えています月曜日は過度の三条で7時45分から時15分まで。水曜日は阪急西院駅前で、木曜日はJR花園駅前で、金曜日は阪急西京極駅前で7時半から8時まで訴えています。通りかかった際には是非、激励をお願いします。

(更新日:2026年06月25日)

八鹿高校事件と八鹿高校生徒自治会 自由な学園の生徒たちの戦い

八鹿高校事件は私が大学入学間もないころでした。
八鹿高校では、職員会議も管理職主体ではなく職員主体に運営されていました。生徒の自治活動も「生徒会」ではなく「自治会」として運営され、高校では珍しく全学連加盟していました。
当時の「兵庫方式」で、各中学から各高校への進学者数が割り当てられ、八鹿高校には中学の上位者が進学していたそうです。エリート高校だったのかな。
 生徒と先生も対等な関係で「自由で明るい」高校で自治会活動も生徒中心。LHR(ロングタイムホームルーム)も、よその学校では教師主体だったのが、教師の関与は少なく生徒が主催。
 授業も教科書はあまり使わず、実践的、体験的教育が様々取り組まれています。
 教員と生徒の距離も近く、授業以外では対等。

 そんな八鹿高校に解同が襲い掛かったのが八鹿高校事件でした。
 校長、教頭が部落解放同盟の圧力に屈し、警察・県教委。八鹿町が解同の無法を容認する中、凄惨な事件が起こりました。
 事件前から解同が大量に八鹿高校に入り込み、1974年11月22日事件が起こりました。
 11月22日,集団登校後、各HRで担任が、授業を打ち切り、年休を取って教員は集団下校と生徒に伝えます。
 先生たちは解同によって路上から暴力的に連れ戻されたことを知った、生徒自身が自主的に判断し解同の無法を許さないと毅然と闘った記録です。
 「暴力反対!」「先生かえせ!」と声をあげ、警察と解同と正面対決!
 八鹿高校事件後も大阪でも解同の「糾弾会」がしばしば起こっていました。暴力的支配、排外主義は絶対許せません!

(更新日:2026年06月25日)

市政報告№372号です

市政報告№372号です。
戦争終結へ覚書署名。覚書の方向で平和回復を強く求めます。
東山民泊調査。
バスケ部OB会、安井後援会伊根舟屋へ!
NO.372

(更新日:2026年06月22日)

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